授業短信 平成30年10月20日 斎藤 賢治先生

平成30年10月20日(土)【2時間目】

次は必ずうまく失敗する

斎藤 賢治 先生(商品開発・ECコンサルタント、株式会社榮太樓總本鋪新規事業開発部Webマーケティングマネージャー)
教科:生活

敗軍の将、兵を語る」は日経ビジネスで40年以上続いている長寿コラムです。多くの経営者・団体責任者が反省や教訓を交えながら、それぞれの事業やプロジェクトの失敗について語ります。紀州くちくまの熱中小学校10月20日の2時間目の授業は、さながらライブ版「敗軍の将、兵を語る」となりました。
創業からたった16年後、育て上げた製菓製パン材料の小売販売「cuoca(クオカ)」を去ることになった斎藤先生。授業短信では授業のほんの一部分、斎藤先生がかつて「常勝軍」を率いていた時、そして「敗軍」から再スタートを切った現在をお届けします。「敗軍の将」として奔走していたころのエピソードはぜひ実際にお会いした時に聞いてみてください。

体力勝負の職場を渡り歩く

cuocaの創業までは色々な職を経験しました。まずは大学卒業後。学生時代に8ミリ映画を作っていた実績を買われて、CM制作会社に入りました。私が入社した時期は、世間ではバブルのちょっと手前。今と違ってCGがなく、映像はフィルムで撮っていました。例えば「ハワイで飲料水のCMを撮影したい」と提案するとそのまま企画が通ったり、2000万円かけて作ったセットをCMの撮影で、一晩で壊したりといったことが許された、ある意味牧歌的な時代でした。仕事は過酷で1年で取れた休みは4日だけ。朝10時から翌日朝3時4時は当たり前で、タクシーで帰宅という毎日でした。今でいうと「ブラック」な職場です。

職場には、中卒や高卒で入社した自分より年下の先輩がいました。大卒で入社した私は遅いスタートだったのです。もっと仕事ができるようになりたいと思っていましたし、進んで背負えば荷物は重くならない、とも考えていました。がむしゃらに働きながらCM制作会社を3年勤めた頃に、CMは流してしまえば終わりで再放送もない。納品したら終わりはつまらない。今度はモノを作る会社に行きたい、と考えるようになりました。生来食べることが好きだったこともあり、縁をいただいてある大手ビール会社に転職することになりました。当時は文字通り「ビール・ラブ」な会社で、飲み会は一次会でひとり大瓶10本は飲む。二次会もビール、カラオケ終わった後も自販機で缶ビールを買って飲むという社員の方が多かったように記憶しています。私はお酒が弱かったのですが、絡んでくる人はいなかった。でも、とにかく当時は99%体力勝負の職場でした。

世界一周して起業家の道へ

1994年にビール会社を退職し、妻と一緒にバックパッカーとなって、141日間の世界一周の旅に出ます。東南アジアやエジプトを訪れ、アフリカのサバンナでは熱気球旅行も楽しみました。帰国後は、明治5年創業の小麦粉と砂糖の問屋の跡取りとして、実家の事業を継ぐために徳島に帰郷しました。そこでは小麦粉の荷下ろしの作業に従事していました。フォークリフトのツメが刺さって袋に穴が開き、売り物にならなくなった小麦粉を処分するため、家に持ち帰りパンを焼いたところ、美味しい。それが周囲に漏れ伝わって、みんなから小麦粉を分けて欲しいと頼まれるようになりました。

当時、家庭で作るパンやお菓子の材料は、どうやってもスーパーでしか手に入りませんでした。その材料を使うとレシピ通りに作っても美味しくできない。私は、普段の経験から家庭ではレシピと違う品質の材料で作っているからだと考えていました。「良い材料でなければ、おいしく出来ない」と確信を持ち、良い材料を家庭に届けるにはどうしたらいいか、問屋という枠組みを離れて良い材料を作る生産者さんと良いお客様との橋渡しができる製菓材料の「小売り」はどうかと思いつきました。

ニッチ競争で活躍したマイナス1号店

小麦粉と砂糖を製菓材料としてパッケージングしてネット通販するビジネスモデルは、誰からも反対されました。「売れないから、誰もやらない」「めんどうくさいからやめとき」との声に「ニッチこそ、勝負できる」との強い思いでcuocaの前身となる小売店を1997年に立ち上げます。実家の問屋の高松営業所の一画を借りて、製菓材料を売り始めました。お店の内装もブランディングも最低限のお金しかかけなかったので、私の中では1号店ではなく「マイナス1号店」でした。

少しずつ売上が伸びていき、2000年にブランド「cuoca」を立ち上げました。2001年には「お菓子づくりはエンターテイメント」をコンセプトに、お菓子をもっと美味しく、もっと楽しくするための実店舗も高松市内にオープンさせました。エスプレッソやハイカカオのチョコレートなど日本にはまだ馴染みがなかったお菓子を紹介し、その楽しみ方を、お店を通じて情報発信していきました。大きな借入金も数年でペイできるほど事業は順調に拡大し、2013年には売上高32億円の企業にまで成長することができました。

起業家は「踊らなにゃ損損」

2016年に自分が作った会社を去ることになって、当時は廃人状態にもなりました。このまま死んだほうがいいのでは、とさえ思ったこともありました。時が経ち、心が癒えてくると本来の楽天家気質が戻ってきました。まだ若い、もう一回私はチャレンジできる。それにどんなに経営が行き詰まっても、普通であれば自分の会社は辞められないのに、私は辞めることができた。これは一種の幸運だと気持ちの整理をつけることもできるようになりました。

今、当時を振り返ってみて食品の小売事業が短期間でこれほど成長できたのも、まるでお客様が自分に乗り移ったかのようにお客様の発想がわかることができたからだと思います。今、私は企業の電子商取引(EC)コンサルティングを行なっています。人のお金で勉強をさせていただいているような感覚です。IoTの急速な発展がECの、レジの革新を促しています。2年後を目処に食べ物に関する何かアクションを起こしたいと思っています。

PHOTO: Nobuhiro Kaji, Shinya Inoue